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チャール・ハルマンダル
Çağıl HARMANDARイスタンブール出身で東京を拠点とするアニメーション監督。東京藝術大学大学院映像研究科アニメーション専攻修了後、同大学院博士課程に在籍中。卒業制作『Vision』は2023年新千歳空港国際アニメーション映画祭の日本グランプリ、2024年大阪ISCA松本俊夫賞、2025年藝大平山郁夫賞を含む10の賞を受賞。現在、新作『Portal』を制作中。

PARTICIPANT REFLECTION
2025年11月に開催された新千歳空港国際アニメーション映画祭の第1回 NEW CHITOSE TASの参加者に選ばれた。映画祭期間中、多くの作品を鑑賞し、トークイベントに参加し、ホテルのバーでのアフターパーティーにも足を運んだ。新千歳2025は楽しく刺激的であると同時に、非常に学びの多い経験だった。映画祭の選考プロセスや、審査員がどのようにして賞を決定するのか、また他者と映画について語り合うことで作品の見え方が変わることを知ることができた。制作途中のプロジェクトを共有し、フィードバックを受け、多くの国内外の監督と出会う機会も得られた。
全体として、この経験には非常に満足しており、他の人にもぜひ勧めたいと思っている。本レポートでは、映画鑑賞中の「注意」(attention)と「注意散漫」(distraction)について考える機会としたい。映画を観ているとき、心は作品に引き込まれる瞬間と、中心が途切れ自身の思考に捕らわれる瞬間の間を行き来する。本稿では、今年の映画祭で上映された二つの作品に焦点を当て、この注意の揺れについて考察する。
映画鑑賞を楽しむ一方で、他の多くの人と同様に、私も映画を観ている最中に注意が散ってしまうことがある。若い頃は、集中力を失うことに知的な罪悪感を覚えていた。しかし最近では、注意散漫との関係が変わり、それを受け入れるようになった。年齢と鑑賞経験を重ねることで注意力は以前より持続するようになったが、それ以上に、注意が不安定で思考がさまよう瞬間も価値あるものとして捉えられるようになった。
構造的に観客の思考の漂流を許容する映画もあれば、そうでない映画もあることに気づいた。その好例が、水尻自子監督の日本グランプリ受賞作『普通の生活』である。この短編作品では、動きは緩やかで、シーンも比較的長い。そのゆったりとしたテンポと最小限のナラティブによって、私は一度映画から離れても、再び戻ったときに作品とのつながりを失わずに済んだ。この体験から、注意が散ることは注意力の欠如ではないと気づいた。映画は注意散漫を拒まず、むしろ注意が出入りできる安全な環境を作り出している。水尻監督の作品は鑑賞するたびに異なって見えるが、この性質は注意が映画の内外を自由に移動できることと関係しているのではないかと思う。また、この方法が長編映画でも可能なのかという疑問も浮かんだ。長時間の物語の中で、漂いながらも関与し続けることはできるだろうか。
ここで対照的なのが、長編実験映画『Girlfriends of Father』である。この作品では、マインドが自由に離れて戻ることがより難しかった。冒頭では、抽象的な3DCGIの形態に魅了され、その動きや色彩の美しさに感動した。後に監督と話す機会があり、いくつかのフレームが絵画のように見えたためコマ撮りアニメーションを提案したところ、監督は大きなキャンバスに絵を描いていると教えてくれた。
映画を観始めてから約15〜20分ほど経つと、私の注意は次第に散り始めた。登場人物たちは感情的につながりにくく、そもそも人物として認識することすら難しかった。彼らは短時間だけ現れ、明確な識別が与えられなかった。注意が逸れるたびに、再び映画に戻ることはますます難しくなった。Chen Xiの作品は、監督の頭の中で行われている私的な遊びのように感じられ、映画自体がその実行形態のようであった。彼はすべての登場人物の声を自ら出し、口で効果音を作っていた。その結果、子どもが一人で遊んでいるのを見るような、幼い遊戯性が生まれた。遊びのルールや役割の背景は曖昧で、外部の人間には完全には理解できない。物語は監督にしか見えていないようであり、あるいは、他者に同じ形で理解されることを望んでいないのかもしれない。私も映画を作る立場として、物語をはっきり語ることにためらい、作品を自分だけのものとして保ち、他者には解釈や感覚で応答させることがあるため、そこに親近感を覚えた。
これは、映画監督としての私にとっての葛藤であり欲望でもある。明確な目的なく遊ぶように映画を作る監督の姿を見ることには価値を感じる。しかし最近では、この遊びの感覚が、初めて作品を観る他者に対して何らかの責任を伴うのではないかとも考えるようになった。それでもなお、実験映画は「理解しなければならない」と思わずに観られる方が、より観やすいと感じる。この意味で、実験映画(そして多くの場合インディペンデント・アニメーション)は、物語を排除したり隠したりすることで、集中と注意散漫について示唆を与えていると言えるんだろうかと思う。